難しい、分からない、ということ

数日前にラジオだったか新聞だったかで話題になっていたこと。田舎の祖母から、デジカメがうまく使えないから説明してくれ、といわれてどう解説するか?というような内容だった。

このなかで例として、「液晶で被写体の構図を確認しつつ、シャッターボタンを半押しすると、オートフォーカスによりセンターのフレームがグリーンに変化します」という有りがちな説明をどう言い換えるか、という展開になった。「被写体がわかりにくい。撮りたいもの、に言い換えよう」「オートフォーカスは難しいけどどうする?自動的にピントが合う、か?」「そもそも半押しがわからないんじゃないか?」と結構盛り上がったんだけれど、どうなんだろうか?

大抵の場合、「ピント」は通じるようなのだ。では「オートフォーカス」とは「自動でピントを合わせる機能です」と説明しておけば、以降は「オートフォーカス」で良いのではないか?ピントが良くてフォーカスが駄目なのは単に慣れじゃないのか?「被写体」にいたってはそもそも日本語だし、「被害者」「被告人」など、日常的に使う表現だ。若者の言葉の乱れ、とか騒いでいる日本語の達人たるお年寄りに理解できないはずがございますまい。

なにが言いたいかというと、本当に理解できないのではなく、ただのアレルギー反応ではないのか?ということ。もちろん指先の感覚が鈍くなってくるから・・・とか、横文字が多過ぎて・・・というのは分かるんだけれど、「サービスとして言い換えて欲しい」という要望と、「説明が不十分で理解できない」というクレームを混同してはいけない。利便性は享受したい、だがそのためにコストは負担しない、では話にならない。

「使いこなせない」「分からない」のではなく、「使いこなすまで努力ができない」「分かるまで勉強したくない」だ。それが悪いとか駄目だといっているのではなく、「出来ない」と自分で信じ込んでしまう前に、「やればできんだろうが、そこまでやりたくない」とちゃんと認識する必要があると思う。その上で勉強したい人はすればいいし、面倒なら使わなければいい。サポートを有料サービスとして使ってもいいし、使わなくてもいい。メーカーのせいにするのはそろそろやめにしてはいかがだろうか。

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